平和を愛する世界人として 第24話

教派ではない教会、教会でもない教会

 

悪口を言われると長生きするといいますが、悪口を言われた分だけ生きるなら、私はこの先、あと百年は長生きできるでしょう。また、ご飯でおなかを満たす代わりに、ありとあらゆる悪口をのみ込んだので、私は世の中で最もお腹の膨れた人です。平壌に行って教会を始めた時に反対し、石を投げた既成キリスト教会が、釜山でもまた私に反対しました。教会を始めて以来、何から何まで言い争ってきました。「異端」「似非」は私の名前の前に付ける固有名詞でした。いえ、私の名前の「文鮮明」は異端、似非と同じ意味でした。異端、似非という接頭語のないそのままの名前で呼ばれたことがないほどでした。

激しい迫害に抗しきれず、一九五三年に私は釜山からソウルに上がってきました。翌年五月、奨忠壇公園に近い北鶴洞のバラックを借りて、「世界基督教統一神霊協会」の看板を掲げました。このような名称にした理由は、いかなる教派にも属したくなかったからです。だからと言って、もう一つ他の教派を作る考えは更にありませんでした。

「世界基督教」は古今東西にわたるキリスト教のすべてを意味し、「統一」は今後行くべき目的性を意味します。「神霊」は父子関係の愛を中心とする霊肉界の調和を暗示した表現で、簡単に言うと「神様中心の霊界を背景とする」という意味です。特に統一は、神の願う理想世界をつくっていくための私の理想でした。統一は連合ではありません。連合は二つが集まったものですが、統一は二つが一つになることです。後日、私たちの名前になった「統一教会」は、実際には人々が付けてくれた名前であり、当時、大学生の間では「ソウル教会」と呼ばれました。

とはいえ、私は教会という言葉をさほど好みません。教会とは文字どおり「教える会」です。宗教は「宗となる教え」ですから、教会とは根本的なことを教える集まりという意味になります。本来、教会という言葉で人と私を分ける理由は何もありません。にもかかわらず、世間は「教会」を特別な意味を持つ言葉として使うのです。私はそういう特別な部類に属したくありませんでした。私が願ったのは教派のない教会でした。真の宗教は、自分の教団を犠牲にしてでも国を救おうとし、国を犠牲にしてでも世界を救おうとするものです。いかなる場合であっても教派が優先にはなり得ません。

仕方なく教会の看板を付けたにすぎず、いつでもその看板を外したい思いです。教会の看板を付けた瞬間、教会は教会でないものと区別されます。一つのものを二つに分けることは正しいことではありません。それは、私が夢見ることでもなく、私の行くべき道でもありません。国を生かし、世界を生かすために、もしも教会の看板を外さなければならないとするならば、今でも私はそうすることができます。

しかしながら当時、現実的にはどうすることもできませんでした。そこで、正門の内側、敷地内に一歩入った建物の入り口に教会の看板を掲げました。少し高い所に掛ければ見栄えが良いのですが、家の軒が低くて、看板を掛けるには不向きでした。結局、子供の背丈ぐらいの高さに看板を掛けておいたので、子供たちがそれを外して遊んで、そのまま二つに割ってしまったこともあります。私たちの教会の歴史的な看板ですから、捨てるわけにもいかず、針金でごちゃごちゃに結んで、釘で入り口にしっかりと打ちつけました。看板をそんなふうにぞんざいに扱ったせいか、私たちも世間から言うに言えないぞんざいな扱いを受けました。

玄関は頭を下げて入らなければなりませんでした。中も狭く、八尺 (約二・四ニメートル) 四方の部屋に六人が集まってお祈りをすれば、お互いの額がぶつかるほどでした。近所の人たちは、看板を見て嘲笑したものです。身をすくめて入っていく家の中で、一体どこの「世界」を語り、「統]」を夢見るのかと皮肉ったのです。名前に込められた意味を知ろうともせず、一方的に私たちを狂人扱いしました。しかし、そんなことは何でもないことでした。釜山では、もらい食いまでして命をつないだ身です。礼拝を捧げる部屋がある今は、何を恐れることもありませんでした。黒い染みが付いた米軍兵士のジャンパーを着て、黒のゴム靴を履いて歩きましたが、心は誰よりも堂々としていました。

教会に来る信徒たちは、お互いを「食口」と呼び合います。当時の食口は、誰もが愛に酔っていました。教会のことを考えて、心の中で「行きたい」と思い続けると、どこにいても私がすることをすべて見聞きできました。神と通じることのできる内的な愛の電線で、完全に一つになったのです。ご飯を炊く準備だけして火を付けずに教会に走ってきたり、新しいチマ(スカート)に着替えると家族に言っておきながら穴の開いたチマのままで走ってきたり、教会に行かせないように丸刈りにされてもその頭のままで教会に走ってきたりしました。

食口が増えてきたので大学街で伝道を始めました。一九五〇年代には、大学生と言えば最高の知性を備えた人々でした。まず梨花女子大学校と延世大学校(当時は前身の延禧大学校)の前で伝道を始めたところ、短期間のうちに私たちの教会に通う学生が増えていきました。

梨花女子大学の音楽科の梁允永講師と舎監の韓忠嘩助教授も私たちの教会を訪ねてきました。

先生だけでなく大学生も多く来ました。ところが、その増え方が一人、二人というのではなく、一度に十人、二十人と幾何級数的に増える状況で、既成キリスト教会はもちろんのこと、私たちでさえも驚かざるを得ませんでした。

大学街の伝道を始めてニカ月で、梨花女子大学と延世大学の学生を中心に教会員が爆発的に増えました。あまりに速い速度でした。春の突風がひゅうと吹き過ぎていったかのように、大学生の心が一瞬のうちに変わってしまいました。梨花女子大学の学生が一日に数十人ずつ荷物をまとめてやって来ました。寄宿舎から出られないようにすると、「どうして?どうして出られなくするのですか。そんなことをするなら私を殺してください!」と言って、寄宿舎の塀を平気で乗り越えて来ました。私が止めても聞き入れません。きれいな学校よりも足のにおいのする私たちの教会の方がいいと言うので、どうしようもありませんでした。

心配した梨花女子大学の金活蘭総長は、社会事業学科の金永雲副教授を私たちの教会に急派しました。カナダで研鐙を積んだ金副教授は、梨花女子大学で将来を嘱望された女性神学者でした。統一教会の教理の弱点を探し出して、学生が私たちの教会に流れないようにしようと、わざわざ神学を専攻した金副教授を送ったのです。ところが、総長特使の資格で教会を訪れた金副教授は、私に会って一週間で熱心な信徒になってしまいました。金副教授まで私たちの教会を受け入れたので、梨花女子大学の他の教授や学生たちが、これまで以上に私たちを信頼し始めました。信徒が雪だるま式に増えたことは言うまでもありません。

事態が手の付けようのないほど拡大してくると、既成キリスト教会は例によって、私が教会員を横取りしていると攻撃を始めました。私は無念で残念な思いになりました。私は、私の説教だけを聞きなさいと強要したり、私たちの教会にだけ通いなさいと言ったりしたことはありません。前門から追い出せば後門から入ってくるし、門を閉めて鍵をかければ塀を乗り越えて入ってくるのです。全く自分の力ではどうすることもできませんでした。

こうなると、困惑したのは延世大学と梨花女子大学でした。キリスト教財団の大学として、他の宗派の教会に教授や学生たちが集まっていくのを、黙って見過ごしにすることだけはできなかったのです。

 

Luke Higuchi